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2018年1月16日火曜日

神経発達症の人のための人間関係マニュアル19(L.カナーの成功例の考察1)

ブログ管理者のまさぞうです。

更新が滞っておりましたが,
レオ・カナー先生による自閉症フォローアップ研究論文の考察です。

まずは1971年発表の
1943年に報告した幼児自閉症11例のフォローアップ研究」から。
(Follow-Up Study of Eleven Autistic Children Originally Reported in 1943)

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<論文要約>
 1943年に「自閉的障害によって情緒的交流が障害されている11症例」として報告した自閉症の子供達について,その後の経過を追跡調査した。患者のこれまで約28年間の半生に関して,発達歴,家族の状況,病状の推移,職歴,現在の生活状況などを示す。近年ますます盛んになる自閉症の疾病分類学的,生化学的研究や,治療的試みについても言及し,さらなる追跡研究の必要性を強調した。

<考察>
 私(カナー)は1943年に「自閉的障害によって情緒的交流が障害された」11人の子供について報告した。私はその論文の中で
「この症候群はこれまで少数例しか見つかっておらず,発生頻度はまれだと思われるが,もっと高い可能性もある」
と指摘した。
 この障害の顕著な特徴は次の通りである。

a) 患児は通常のやり方で周囲の状況や他者と関わることができず,その異常は発達早期からみられる。
b) 同一性の保持(同じことの繰り返し)へのこだわりが強く,それがうまくいかないと不安に駆られる。

 私の報告の1年後,この症候群は「早期幼児自閉症(early infantile autism)」と命名された。

 最初の報告から28年が過ぎ,「早期幼児自閉症(訳注:現在の自閉スペクトラム症)」は今や精神医学における重要な研究対象となっている。自閉症に関しては無数の論文や本が書かれ,世界中の多くの国々で家族組織,特別教育システム,治療・研究施設が作られた。1971年の今,多くの人々の関心を惹きつけているこの自閉症という概念が生まれるきっかけとなったかつての自閉症児について,これまでの経過を振り返ってみることは有用であろう。

(中略。自閉症と小児統合失調症の違い,また自閉症の先天性や心因性について1971年当時の知見が述べられている。)

 11人の自閉症児はみな高い知的能力を持つ両親から生まれており,家族においても強迫的な性格が目立った。両親たちは驚くほど詳しい日記や,子供達に関する何年も前の詳細なエピソードを披露してくれた。それによると,ある子供は長老派教会の25の教理問答を暗誦できたし,別の子供は37曲の童謡を歌えたり,17の交響曲を聞き分けられたりした。また自閉症児の血縁者には,科学,文学,芸術などの分野における抽象的思索に熱中し,人間に対する興味・関心が乏しい人物が目立った。しかしながら,この近親者の高い知能と対人関係の希薄さから,それを自閉症の原因と決めつけるのは誤りである。私は初期の論文で,自閉症児自身が幼少期から孤立を好む傾向を指摘し,このため発達早期の親子関係が自閉症の原因と断定するのは難しい(親子関係が原因なら生後すぐではなくしばらくたってから孤立傾向が生じるはず-訳注)と述べている。

 1943年の時点では自閉症児の将来についての予想は困難であった。医学全般において,病気の経過の予想は,多くの症例の経過を追った後にはじめて可能となる。自閉症も1943年の発見時には誰にとってもまったく未経験の疾患であって,将来の予測に役立つようなデータはなかったのである。しかしながら1971年の現在,我々は約30年間の追跡調査によって,最初に報告した11例のその後の運命を知ることができる。

 11人の自閉症児たちは,その後開発された種々の仮説に基づく治療法のない時代に生きていたことを忘れてはならない。これらの実験的治療法には,精神分析,オペラント条件づけ,神経薬理学,特別教育,両親への心理治療,あるいはこれらの組み合わせがある。これらの治療法に関する長期的有効性の評価についてはさらに時間が必要と思われる。しかしながら現時点では,自閉症の症状改善をめざしたこれらすべての治療法によっても,一時的・部分的な効果以上のものは得られていないようである。

 私が最初に報告した11人の自閉症児のうち,8人が男性,3人が女性であった。この男女比が偶然であったかどうかは発表当時は分からなかった。その後,ジョンズ・ホプキンス病院で診断された最初の100人の自閉症児の統計では,男女比は4:1で男児が多かった。自閉症が男性に多いという傾向はその後報告された他のすべての研究においても認められている。またジョンズ・ホプキンス病院をはじめて受診した年齢は,男性2〜6歳,女性6〜8歳で,男性の方が若い傾向がみられた。

 11例のうち,9人がアングロ・サクソン系であり,2人がユダヤ系であった。3例はひとりっ子で,5例が2人同胞の長子,1例が3人同胞の長子,1例が2人同胞の第2子,1例が3人同胞の末子であった。これを見る限り,同胞の数や生まれた順番は自閉症の主要な原因ではないようである。

 身体的には11人の子供達はみな大きな問題はなかった。2人において扁桃腫大(アデノイド)が認められたが,これは早い時期に手術によって切除された。5人の子供達はやや頭囲が大きかった。数人の子供達は歩行や粗大運動において不器用さが認められたが,細かい運動における筋肉の協調性は全例において非常に良好であった。脳波検査では1例だけ異常があり,その子は大泉門が2歳半まで閉鎖せず,ジョンズ・ホプキンス病院受診から3年後に右半身優位の痙攣発作を起こした。フレデリック・W(このブログの症例12-訳注)は左脇に第3の乳首があったが,それ以外に先天的な身体異常を有するケースはなかった。子供達はみな賢そうな顔つき(intelligent physiognomy)をしており,他の人のいるところでは真面目な,あるいは不安で緊張した様子を呈する一方,独りで好きな物品を与えられていると至福の穏やかさを呈した。

 全体にこれら11人の自閉症児は,症状の程度などに多少の差異はあったものの,4〜5歳頃までは非常によく似た行動パターンを示した。孤立性(aloneness)と,繰り返しを好む(stereotype)というのが彼らに共通した2大特徴である。しかしながらその後30年が経過した現在,孤立性と繰り返しを好むという共通の特徴は残っているものの,彼らの運命・生活には大きな違いが生じている。

 我々はポール・Aとアルフレッド・Nに関しては現在の状況を知ることができなかった。ポールの母親は我々の病院以外にも何人もの専門家を受診したが,いずれも1〜2回の診察で中断してしまい,1945年以降の消息は不明である。アルフレッドの母親は息子を11ヶ所もの公立・私立の学校に預けたがいずれもうまくいかず,さらにその後いくつかの居住型施設を試してみた。アルフレッドは作業療法に良い反応を示したのに母親はそれを評価せず,結局自分である種の「学校」を設立して,そこで息子の世話をすることにした。

 11人のうち2人,ジョン・Fとエレーヌ・Cはてんかん発作を起こした。ジョンはジョンズ・ホプキンス病院の初診から約3年後にてんかんを発症し,何度か住居を変わった後,1966年に死亡した。エレーヌの発作は20代なかばから始まり,39歳の現在も「抗てんかん薬と安定剤」を服用している。1950年にラッチワース村にあるニューヨーク州立学校に入学した時には彼女の脳波は正常であった。エレーヌはその後ハドソン川ニューヨーク州立病院に入院し,現在もそこで生活している。

 リチャード・M,バーバラ・K,バージニア・S,チャールズ・Nはいずれも施設に入所することになったが,そこでは入所後間もなく彼らの優れた能力の輝きは失われてしまった。はじめのうちこそ彼らの好む孤独を求めて周囲とぶつかったり,現状維持を求めて変化に抵抗したり,優れた記憶力で周りを驚かせたりしたこともあったが,しばらくすると彼らは邪魔者のない孤立状態にすっかり適応してしまい,生命の炎が消えたような状態(nirvana-like existence)に陥ってしまった。そして知能検査においてある程度の反応は得られたとしても,彼らの知能指数(IQ)はいわゆる重度知的障害というレベルにまで下がってしまったのである。

 残りの3例においては運命はそれほど過酷ではなかった。ハーバート・Bは,現在もなお言葉を話せず,普通人にとっての完全な幸福を手に入れたとはいえないが,ある程度有用な人生を送っている。彼はある農園に引きとられ,そこの主人について回るうちに,やがて日常の雑用を一部自分で担当できるレベルに達した。後にその農園主が死去して未亡人が老人ホームを経営するようになると,ハーバートは自分の繰り返しへの執着を結果的にうまく利用して,親切で頼りになる助手になったのである。

 ドナルド・T(このブログの症例11-訳注)とフレデリック・W(このブログの症例12-訳注)の2人は真の成功例といえる。ドナルドはある貸農園に預けられたが,そこの経営者夫婦は専門家顔負けの生活支援を行い,ドナルドの無意味なこだわりを生産的な方向にうまく誘導して,さらに彼と家族との交流を絶やさないようにした。ドナルドは今,銀行の出納係として普通に働きながら,プライベートではいくつかの地域活動のメンバーであり,1人前の市民として尊敬されている。フレデリックは特別教育で有名なデヴルー学校に入った。彼はそこで単純化・習慣化された生活と教育によって徐々に成長し,音楽や写真撮影の才能もあって,少しずつ一般社会に参加できるようになった。1966年からは両親のもとに戻り,保護的就労や職業訓練を受けて,コピー機の操作を習得している。彼は現在通常就労で働いており,上司の評価は「信頼性,完全性,同僚への思いやりといったあらゆる点からみて,すばらしい職員」と非常に高い。

<コメント>
 本論文では1943年に報告した11例の自閉症児のその後の経過を報告した。彼らの就学前の行動パターンは非常によく似ており,同一の症候群(自閉症)を有することが示唆された。その後約30年間にわたる追跡調査の結果については,対象症例数が少ないために統計学的解析は難しい。ただ彼らが幼少期にはとてもよく似た状態像を呈していたのに,後年ある者は悲劇的な悪化をきたす反面,一部の者は通常就労と表面的・限定的ではあるが良好な社会生活という大きく違った予後をたどっているのは大変興味深い。

 今回の追跡研究をみれば,自閉症児にとって(1940〜60年代の米国の)州立精神病院への入院が終身刑に等しいということは明らかだろう。そこでは彼らの驚くべき記憶力は失われてしまい,病的だがある程度活動への動機づけになっていた繰り返しへの執着は入院生活のルーティーンの中に埋没してしまう。また貧困な対人関係の中で周囲への興味関心も薄れてゆき,患児はほぼ無為無意味な生活パターンの中に退行してしまうのである。一般に自閉症児は州立病院に入院すると,彼らよりも障害の重い知的障害児か,あるいは成人の精神病者たちと同じ空間で生活することになる。実際,今回報告した中の2症例は,年齢が上がるにつれてこの2つの環境を経験することになった。ある州立病院の責任者はこれら自閉症児の処遇について「我々はただ親の代わりに保護しているだけだ」と述べた。しかしながら最近ようやく,ごく少数の州立精神病院において,適切な訓練を受けた治療スタッフによる小児専門病棟が開かれるようになっている。

 これら自閉症児の運命の明暗を見た時,「社会適応不良な子供達がもし違った環境で生育していたらもっと良い生活を送れていたのではないか?」あるいは「今や有能な銀行員であるドナルド・T(このブログの症例11-訳注)や,コピー機の操作係として働いているフレデリック・W(このブログの症例12-訳注)も,州立精神病院に入院させられていたら暗い運命をたどったのではないか?」という疑問がわいてくる。この疑問に対する答えはおそらく「イエス」だろう。しかし(生活環境以外の)何らかの未発見の要因が自閉症の予後に影響を与えている可能性も否定できない。およそどんな病気でも,軽い不全型から重い劇症型まで様々な重症度のケースがみられるものだ。この重症度の違いというものは自閉症においても存在するのだろうか?

 自閉症の発見から約30年が経過し,治療に関する多くの試みがなされてきた。しかしながら現在のところ,全ての症例に対して症状を持続的に改善するような治療法(治療環境,薬,その他の技法)は見つかっていない。そもそも自閉症においては,なぜ本稿で紹介したような予後の多様性が生じるのだろうか?予後を予見できるような何らかの手がかりは存在するのだろうか?

 自閉症に関するこのような多くの疑問のうち,一部のものについては近い将来正答が得られるかもしれない。近年進歩が著しい生化学的研究は,自閉症の本態について新しい視点を提供してくれるかもしれないし,最近では複数分野の研究者が連携して研究を進めるケースが増えているため,最新の遺伝学的研究や動物行動学の知見からヒントが得られるかもしれない。例えば今や患者の両親の役割は,親子関係において子供と対極の立場にいるだけという従来型のモデルから脱して,子供との相互作用という面が注目され,治療共同体の一員と考えられてきている。つまり自閉症児の親は子供の障害の元凶ではなく,単なる処方箋のもらい手でもなく,「〜すべし。〜すべからず」といったルールを押しつけられる存在でもない。彼らは主体性を持って子供の治療に関与する共同治療者なのである。

 本論文では自閉症の最初の報告から30年間の経過を追跡したが,その間,残念ながら診断基準の改善以外には大きな進歩はみられなかった。自閉症に関してはこれまで様々な理論・仮説・推測が提唱され,症状の軽減をめざして現在も多くの治療法が試みられている。それらの最終的な評価には今後の研究を待たなければならないけれども,もし将来我々に続く研究者たちが自閉症に関する新たな20〜30年の長期フォローアップ研究を行うならば,その時には今回の報告よりも希望に満ちた予後を示す事実や材料が示されることを期待したい。
       以上